つねならむぅん

カテゴリ: 日記

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このところ遠い過去の自分と出会い直している感覚がある。向き合うというより並んで歩く、同行二人、三人、四人と、時代時代の私が並んでいるような。

それでいて私の本来というのは、煙みたいなもののようだとも思う。浦島太郎に出てくる玉手箱の中から出てくるアレ。

ということはオヤ?

私は時間です。
私が時間です。

ってことかしら......?

真相はともかく、たくさんの私と共に、
生きている今日。

しばらく放置していた上妻世海の「制作へ」を
ぱらっと眺めたら、
考えが少しまとまるような、
とりつく島みたいなものが見つかった。

寝たら忘れてしまうだろうか?
忘れないといい。
流れていかないように。
と思ってブログに書き留めておく。

でも、わたしにはブログという形式や方法が向いてないのだなと、ようやく深く理解したりして。さようならと思った。

さようならと感じることが、昨年から
ぽつぽつ続いていたけれど、
ここもかぁ〜と晴れやかな気分。
何かが死んで終わったのかな。
さようなら、ありがとう、またあした。

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映画を観てから既に1週間以上経つのに、その感度が続いている「くじらびと」

祈りが身体化している人々、またその動きや暮らしが、今日現在も続いていることに、自分がこんなに慰められ、勇気を与えられるとは、どれだけ自分を歪め、傷ついていたのかと呆れ果てるほど、温かな何かを得ることが出来た。

インドネシア、ラマレア島。人口1500から2000人未満の村で、くじら漁が主産業の、過酷かつ弱き者に優しい暮らし。

30年通った方だからこそ、今の技術を活かして撮れた映像に感謝の気持ちが沸き起こった。

もちろん、あの村では生きていけないとか、やりきれない人がいることも十分想像できるし、あの生き方こそが正解とも思わないのだが、

くじらびと達のような天地とつながるような自然体の生き方、あり方を、今たまたま住んでる人口過密で都市郊外のおかしなまちで、どれくらい実践できるだろう?

そんな無茶振りを、自分に課したい、と改めて思ったのでした。







ここ数ヶ月準備してきた花端会議が、今日終わった。まだ残務はあるけれど、この数年取り組んできたことが、ようやく一つ、具体的に実を結んだ感じがして素直に嬉しい。

特に対面でなくオンライン化が決まってからの数週間は、時間感覚が少し狂い、PC作業がどうしても増えていたから、区切りがついてほっとした。

まだ頭だけが少し興奮してしまっているけど、心身は穏やか。だいぶ失敗もしたのだが、それを笑って支えあえる、あたたかな人の繋がりが、たしかにあったからかなと思う。

またここから、気持ちも身体も切り替えて、来週また大きな山を、今度はまた別のチームで乗り越える事になってて、まだ、今夜は切り替わりそうにない。

まだ20時台だというのに、トーア氏は珍しく眠りについてしまい、私は、目の疲労を感じながらも、まだ眠気がこないので、あかりを消した暗い部屋の中でスマホを開き日記を書いている。外は雨。今夜も静かだ。

つらつらと頭と心身の周りを流れていく思考のようなものを、ぼんやりと聞いている時間は至福。そろそろスマホの電源も切ろう。







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そうか、今日は夏至だったのだな。
一年で一番日が長い日。これからは徐々に夜が長くなっていく。


先々週くらいから、ぐっと疲れのような重いものが押し寄せてきていて、(それはここ3年くらいずっと続いていたようにも思うが)、とにかく必要最小限の動きをして、他はほぼ寝たきり、みたいな日が続いていた。

頭では明るい気持ちやら前向きな発想があっても、どうしようもなく怠惰になってしまうこの感じはなんなのか。

もはや慣れて当たり前になりつつある、何もできない時間を、しかし、今年に入って、ただただ認めている私がいる。それは何というか、とても優しい時間だ。色々出来ていなくても大丈夫、焦りや劣等感からちょっと外れて、浮いているような。



今日も自宅にいて必要最小限の対応をPCを通じてやり、途中、甲羅干しをするカメの気分で何もしないでぼんやりしていたのだが、夕方になって、ふいに身体が動き、ものを考える隙があり、人に連絡をとる事ができた。短時間だが、パキッと違う時間。

この言葉の本当の意味はよくわかっていないのだが、「ただサイのツノのように歩け(歩め?だっけ)」という感じが、映像的に迫ってきたのも面白かった。

すごくゆっくりとではあるが、
身体との対話の時間をとるようになって、この頃、体が成長期という感じで面白い。

今朝は急に一歩世界が深まったようだ。

今まで、立ち方がだいぶ狂っていた(歪んでいた)ことに気付き、
また、それを治そうとしている身体を
信頼すれば良いと気づいた、といったところ。

自分の身体を、自然に労わるには、
外からの情報を減らして出来ることに
集中すること。
それから、ぼんやりしたり、
ひたすら眠ったりする時間が必要。


そして手にした本に、生まれもった身体が8割で、意識は身体の営みから生じたカス、オプションに過ぎないというような話が出てきて、それがすっと入ってきた。
考えるな感じろというのとも違う、自然体の追求は続く。


私の住んでいるところは駅から遠く、都市部でも郊外と言われるまちで、今後10年で高齢化率がおそろしく進むであろうエリアの一つである。

とはいえ、今のところ、バス便は多く、自転車ライフだし、必要な時にはトーア氏の車もあり、それほど不便は感じない。それに、これからの時代は、列車より小回りの効くバスを見直す方が楽しいまちづくりに欠かせないだろうと思っているのだが、やはり電車が通る、駅が出来ることに、目を輝かせる人が多いのだなと、そこはかとなく虚しさを感じるこの頃だ。

長い間議論されてきた、あざみ野から新百合ヶ丘駅までの地下鉄延伸がいよいよ決まり、10年後には地下鉄の駅が近隣に出来ると決まってからの、沸き立つ人々を間近にリアルに見て、なんだかなあと思う。

ハードの整備によってまちが活性化したとしてせいぜい50年ではなかろうか。私が愛する自然環境の下に穴を掘る事での、その後100年単位での生態系への影響はいかばかりか、と、ため息をついてしまう。

正直、そのやり方はもう古いと感じている私は地下鉄ができる頃には、移住かな、と、本気で考えだしている。

45歳の誕生日の日の午後は図書館に行った。

日常の色々が少し落ちついたタイミングだったこともあり、脳と身体にようやく少し空間ができたのだ。新しい分野の本を手に取ることが出来て、やっぱり来てよかったと思う。私は最先端な人間ではないせいか、本屋より図書館のが、鮮度高い情報、未知との遭遇率が高いように感じる。

うすうす感じていたけどよく分からず放置しておいたジャンルの魅力に突如気がついて、これだったかと、新しい扉をそっと開く喜びは大きい。その向こうには、覚えなくてはならないことが、たくさん出てくるけど、一人でがんばらなくても良さそうだし、手遅れということはないことが、手に取るように分かるという不思議な感覚を味わった。



それにしても、本当は知りたかったのに、諸々の事情と頭の悪さが重なって気づけなかった盲の自分を発見するとあちゃーと思う。しかし、40を過ぎると、そんな小さな自分への恥ずかしさも3秒くらいで乗り越えられるので、ありがたい。

私の場合、与えられた状況で求められている表向きの情報を探しているときに、くっついてくる裏の裏の裏側くらいの情報に、知りたい触れたいの本質があるのかもしれない。

そうした多層な構造を、ちゃんとは理解していなかったから、ぼんやり流されたり巻かれたりしながら、ギリギリのところで、なんとか立ってやっていくしかないのだ凡、凡、凡♪

バイバイ昨日までの自分。これから凡〜ん、凡〜んと、飛んだり跳ねたりしながら進もう。

うん、なんだか頭の中で音がなり響いて、怪しい文章になってきた、愉快な45年目の凡、凡凡凡!

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新年度に入って最初の週末。
ようやく自分の活動のためのインプットができた。

神奈川ネットワーク運動のあゆみについて、調べることに、
しばらくは時間を費やすことになる。久々に夜中まで調べたり、
書いたり。
女性たちの「しみんうんどう」のあゆみは、すごすぎて、
でも、なぜか無視されがちで、愛しくて。
アウトプットできる日が楽しみだ。

・・・

写真の野蒜は、木曜に、仕事場の庭や畑の敷地内で収穫したもの。
一部の土地では昨年に比べて数倍増殖していて驚いた。
特に世話もしていないのに、自然に生えてきてくれるって、ありがたいこと。

この季節、スギナやどくだみもニョキニョキ生えてきて、よし!と思う。
昨年に続き、野草でお茶づくりという仕事が待っている。


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裸足ライフを提唱しながら身体カチコチだったこの頃、考えてても仕方ないと、近所の公園に行ったら、必要なものは全て身近にあったじゃんと、あきれるほどに平和@川崎市麻生区王禅寺公園 


今日は裸足にはならなかったけど、土日ってやっぱり子連れファミリーが大挙して訪れるのだな。

トーア氏と散歩しながら、全ての人がかわいく見える心境って、やはり精神も肉体ももう老人なのかなと、なんだかさっぱり思えた日でした。

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「人にやさしいまち」って、どんなだろうか?と、ずっと考えています。

身体能力を限りなく花開かせるような暮らしと、ケアが行き届く社会は、異なるようで、ものすごく近い気がしているのだけれど、どちらもちょっと間違うと、近さがなくなってしまう感じがなんとももどかしい。

自分の中にも、その二つが融合することに、まだ何か矛盾や、相反するものが残っているようで、これを何と言ったらいいのか。

と、書き始めたら眠くなってきたので、明日改めて整理したいところ。

もう少しぼんやりする時間と、出会いが必要そう。

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不食をはじめてから、およそ2ヶ月。
やはりちょっと痩せたかも?と感じるが、
体重を測るという行為を長らくしていないので
良くは分からない。健康状態は悪くはなさそうで、エネルギーも不足してはいないみたいだし、自分の身体が少し自分に近づいたような感覚がある。

今のところ、適度に糖分も、添加物も、アルコールも、肉も、食べている。ただ、トータルの飲食物の消費量でいったら今までの5分の1くらいかと思われる。トーアさんは、変わらず色々買ってくるので、家計的にはそこまでの変化はないが、仕事に行く時は外でランチしていた分をがほぼなくなったので、個人としては、食費を使わなくなった。


月一回、森ノオトで実施している、「ウェブいいかも市」の日の夜には、写真のように豪華な夕飯も楽しんだ。縁のある近隣の個人商店を応援する地産地消のすすめの取組で、1店舗1000円のセットを好きに組み合わせて購入するのだが、人にあげる分などと合わせて、ここではお金を使うというメリハリをつけている。



2月に入り、変化したのは間食として、コーヒーに合わせてお菓子をよく食べるようになったこと。

えっ?身体に悪いじゃん?!不食じゃないじゃん!と思うかもしれないが、食べても食べなくてもよい自由が不食の醍醐味。

「なるほど、おやつの楽しみってこういうことか〜」と、初めて気づいている感じで楽しいのだ。変な依存でも、強い欲求でもなく、お菓子という存在への敬意を払っていただく感じ、というと大袈裟だろうか。

トーア氏も、アルコールをやめたら甘いものが食べたくなるのだそうで、箱入りクッキーやら、おせんべいやらが常備されるようになった梅原家である。

と、書いていて、自分で手づくりするという選択肢をすっかり忘れていた事に気がついたが、その気が起こらないうちは、ブルボンやら森永、トーハトなど大手のメーカー品にもお世話になろう。


この行動や気持ちの変化には、1、2月にハマっていた森博嗣さんの小説、ヴォイドシェイパシリーズも影響しているなと思う。考えすぎる侍、ゼンの、剣の修行の旅に同行することで、こちらの思考までシンプルにクリアーになっていく体験をして、自分の中の男性性と女性性がまあるくまとまったと思った。

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室内の暖かさで、育苗ポットで花が開花してしまった。ほんとうは広い鉢に植え替えしなければならないのだが、ベランダや事務所の庭の手入れへのエネルギーが残っておらず、そのままにしておいたのだ。


だけど、こんなに小さな土壌と少しの水で、植物たちは太陽をもとめて健やかに成長し、こんなに美しい花を咲かせるのだなと、自然の造化の神秘を感ぜずにはいられない。

花を咲かせるには相当のエネルギーを使っているはずなので、ここで老化が進まないよう摘んでみる。親指より小さな花だがなんとも精巧精妙で見飽きない。

トーアさんは「まるで小学生がつくったみたいだね」と笑って言う。私は、ジョージアオキーフをちらっと思い浮かべる。

そして、そういえば、ジョージアオキーフの画集を持っていなかったなと考える。しかし、その前に、まだ手をつけていなかった襖に、和紙を貼る作業が先だなと思い出した。うん、2月は、その作業をやろう。ベランダ整理は3月だ。のんびりやったほうが、うまくいくだろう。

1月は、職場のゴミをどうにか片付け終わるところまでで、かなりのエネルギーを費やしたなと感じる。同時に頭や意識にも余白が出来て、団体内の話し合いの本丸に近づいてきた感はあり、さらなる脱力が必要だなと思っている。何をつなぎ、何を離れるか、自粛期間のおかげで、じっくり考えられるのが嬉しい。



少食も続いている。
トーア氏に合わせて、夕飯はビールを飲み、肉も食べるが、量が少しで満足するようになって、すごく気持ちが楽ちんである。

満腹感を前より感じるようになったというのが正しいかもしれない。朝も空腹ではなく、食欲が満たされた状態で起きるので、野菜ジュースやお茶、コーヒー、生姜湯など、その日の気分で飲むことを楽しんでいる。

日によっては、夕飯前に、小腹が空く時があり、そういう時は、我慢せず、せんべいやクッキーなどを食べることもある。

テレビやネットを通じた、目からの刺激で食べたいという欲が湧くことがないのも不思議だ。画面を通じて何かを美味しそうに食べている人を眺めて楽しむことはできるが、羨ましいとか、つられて食べたくなることがない。

食べない=寒いということもない。
外裸足はしていないが、うちにいる時は基本裸足で過ごしている。休みの日は窓際で猫のように日向ぼっこする楽しみも覚えた。

食べても食べなくても良い。

身体に正直に生きる風習と、そこから現れてくる態度、しぐさ、所作、まなざし、思想、ことばの更新と熟成を、楽しみに待ちたいと思う。


年末年始はいつも静かな梅原家だが、今年はトーア氏の実家沼津へ帰ることもなく、私が長めの冬休みをもらったため、さらに静かで穏やかな日々を過ごすことが出来た。そのおかげもあってか、内面的な意識の変容がどんどん起こり言葉が追いつかない程だった。


3.11以降に私の内面で起こった津波がようやく凪いできて、それを静かに見渡すもう一人の私がいて、これからやっと本当の復興に向けて動きだせるかなという境地に立っている感じだ。

もちろん、ほんとうの復興といっても現地に行って何かするわけではなく、損なわれた部分を改めて把握して、さまざまに散らばったあれこれを整理し、自分自身や今いる組織、関わる人たちの無意識のとらわれ、常識などをいちいち書き換えるというような非常に地味な仕事をコツコツやるのである。

今いる環境で、頭に?が浮かびながらも、言葉にならず流されるままになっていた部分を書き換えていく作業はそれなりに労力も胆力も必要なのだが力まずにやっていきたい。

1番大事な仕事は、人々の中に眠っている野生の喜び、自身を含む自然との触れ合いの素晴らしさを、日常に取り戻すことだろう。とにかくそれを軸にしていれば次に進む道が自然と分かる気がしている。

休み中、ヤマクミがパークの日に公園へ行こうと誘ってくれたこと、WAKUSEIゆーきとペグルのじゅんこさんがヘナをしてくれたこと、久しぶりに図書館に行けた事、保木公園で堆肥づくりがはじまったことなども、私の中では復興という文脈で繋がってくるものだ。



自身にとって1番の変化は、しかし、「不食」の領域に一気に進んでしまった事である。

以前、「食べない 死なない 争わない」を読んでから、いつかそっちにいきたいなというなんとなくの願望はあったけれど、特に無理して目指すものでもないと普通に過ごしていたが、最近すぐお腹いっぱいになるな、とは思っていた。

年末年始暴飲暴食する機会もなかったので、あれ?と思って食べない日を作ったら調子がよい。食べるとむしろ疲れる事に気づいたので、やめてみたら、食事に関して、すごく自由になったのでわたしも驚いた。

栄養へのとらわれ、食べないと人は生きていけないという刷り込みからの解放である。それから美味しいお店なり美食の情報を持っている人の方が素敵で人気者になれるというような無意識の順位づけとかもすっかりなくなってしまった。


今は、夕飯だけは、トーア氏と共に食べるので、一日一食、朝昼はお茶やコーヒー紅茶、みかんやりんご、余っていたシュトーレンの残りをちびちび食べたりはしているので、不食というよりは少食だけれど、一食の分量は少なくアルコールも量が減ったので、しばらくはこれでいく予定。先日、仕事後にお弁当を買って食べ、夜も調子に乗って食べたら、次の日半日寝込んだので、もうやらない。



ダイエットしているわけではないので辛くないのが良い。体力が落ちたり、変に痩せてきたりしたらマズイのですぐやめると決めているが、目に見える表面的な身体がどう見えるかはもはや問題ではないので、本当に気が楽になった。

そして、急にスピリチュアルに目覚めたといって何か活動するつもりもなく、ごく普通の暮らしを愉しむのだ。また何か気づいたり変化があったら、またここに記録していく。

何も手につかず、
朝、ふと気持ちが動いて積読していた
佐藤正午さんの小説、月の満ち欠けを
手にとり、1日ごろりと寝そべりながら、
読みました。

月の満ち欠けのように死んでは生まれ変わる
瑠璃という女の子。
地縁の血縁を超えた、生と生のつながり
を描いた物語で、嘘のようで、一理ある
話しから、自分の現実に戻るかと
台所仕事を始めた矢先に、
古い友人の死の知らせがあって、
ちょっとドキッとしました。

コロナ禍で、家族以外は
お別れには行けないようで、
だから美夏が何か知らせに
来てくれたような気がしています。



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色々とやる事がまだこんがらがっているが、手が動けば少しは思考も整理されます。

昨日の連想から、さらに飛んでみつけたものにドキドキしたりと感性の寄り道しながら、
なるべく透明な気持ちで、地上で今受けもっている仕事をしました。今日は、ほぼ頭と目と指しか使わないのに沢山の人とやりとりで、メールした人から電話が入って、人の声っていいなと思っていたところ、

NHKのハートネットTVが途中から、なぜか夕飯時に流れはじめて、トーアさんがここにチャンネル合わせるなんて珍しいなと思いながら、
一緒に見ました。

ALS患者の方が言う、自殺は人間の特権ではない、っていうことばの重みがずんと迫ってきて、声が出ない身体、動けない身体って、どんな辛さだろう。見捨てられる不安がものすごいだろうと想像しました。それでも、生きてる間は大切にされたいよな、と、私も思う。

動けない身体にも重力は等しくかかってて、そしてALSの人々は考える事が出来る。人形ではない生身がある。介助者の仕事をつくっている。テレビ番組が生まれ、私に考える時間を与えてくれる。

私は、というと、介助者の話を聞いてみたくなりました。


賛成とか反対ってことではなく、

ただただ違うのね、、、というこの感じ。
多様性。
交わらない、平行し並行する世界のお話。

ゲノム編集が、画期的、革命的な
発見だとして、ここで認められて、さらに進み

病まず死なず
ただ生きることが楽しくなる?
苦しまなくなる?
それはしあわせ?
差別のない、真にダイバーシティな世の中を
つくることに役に立つのかな?

昨日、最近めまいや頭痛がするというトーアさんとともに
初めて漢方医を訪ねました。
私自身も初めてで、ネットでみて
たまたま近かったからという理由で予約して行ったのですが、
ものすごく淡々とした診察で、先生のことを
すごいとか、ダメだと感じる訳でもなく、
その、ごく普通すぎる感じがとても良かったです。

これは、私の欲しい当たり前の風景だったのかも。

つい先日、まちの薬局で貧血の薬を買ってみたり、
漢方薬局で高い薬を買わされたトーアさん。
先生から、
「それは却ってダメ。一旦やめて私がいい薬出します」
と諭されて納得したようだし。
保険適用で診察も漢方薬ももらえるのはありがたいです。
しばらく飲んで、症状が改善しますように。

クリニックの隣には、いかにも古くからやってますという風の
街に馴染んだ小さなお肉屋さんがありました。
ちょっといいとこ見つけちゃったという喜び。
次回の診察日にも、また立ち寄れると思うと
治療と肉屋とどちらが目的なのか分からなくなりそうです。

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しかし、東亜という名前なのに、
東洋のもの、アジアのものと仲良くしようという考えが
ほぼなかったトーアさんが、漢方薬を飲み始めたのは、
なかなかの大きな変化です。革命です。
通訳係みたいな感じで、
そこに立ち会っている私もなんだか不思議な気分でした。

長く一緒に暮らしていると、自分と相手との境界線が
よく分からなくなるものだとは思うけれど
一体何が起こっているのだろう?

治療を受けているのは私かもしれないし、
ただクリニックに一緒にいくということが、
絆になり、思い出になる。
という実感がいちいちあるんだよな〜。

先日、だって女の子だもんという真実
ということを書いたけれども、
もっと底の方におりていくと
「わたしはただの生きもの」
「人間はみんなただの生きものだ」というところに落ちついて、ようやく、どこまでも平らな地平に立てた気がする。

そんなこと分かってるよと思うけれど
案外ちゃんとは分かってなかったかもしれない。知ってるのと体感して体得しているのは別。

色々な情報の藪みたいなものに
絡まれ、阻まれるからかなあ。
誰だって自分は特別と思いたいからか?
誰もが特別な命ということもほんとうではあるから、ややこしいけど。

とにかく、人間はただの生きもの、という
新しいものさしを得たということで。
めでたいな。

今日はそんなわけで祝祭日。
ハレの日は、こうして突然やってくるものとしたい。



という言葉に出会い、ぐっと来た今朝。

とある気付きに、ほんの少しの割れ目が生じて
目の前にいる人が、ふっと、そこから
染み込んでくるような昨日の体験。

何かが変わりつつあり、変わらぬ何かが
現れる時事刻々。

この一週間は、
人との抜き差しならぬような
差し迫った、
でも、少し遠い、
そんな日々や体験が続きそうな予感です。




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「アッキーが珍しくあつっぽかったね」と、
今朝オンラインmtgしてた私への
トーア氏の観察と表現に、ほんわか、やさしい気分になった。

とげとげしてしまう時間の合間には、長く静かな滔々とした時間があり、危険なこと嫌なことは何も起こっていない。
そちらの割合の方が実際は多いので
「うん、でも、大丈夫だよ」と答える。

昨日だって、知人と最近お気に入りの公園で待ち合わせて、朝のひとときを過ごしたら、とてもいい気分だったのだ。

彼女から手作りのジンジャーエールが美味しいと聞いて、今日、地域のファーマーズマーケットにあった塩レモンサイダーを買い、空いた瓶で、明日は手作りの炭酸水をつくってみようと食用のクエン酸と重曹も買ってみた。

まずはしょうが風味のスパイシーなタンサンをとワクワクする余裕がある。

色々制限されても心も身体も結構自由で元気。


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