つねならむぅん

カテゴリ: タオ


この数週間で、はっきりと気づいたこと。


良妻賢母像からはとっくに降りて

良い子良い娘からも降りて

良い人からも完全に降りることが出来た。

良い人を降りるには、やはり
かつてない葛藤があったけれども

降りてしまったら、うん、大丈夫と思えた。

なにせ私のアイドルは
寒山拾得なのだから。

絵でしか知らない
アジアの知が残してくれた
うす気味悪いキャラ。

いい加減で、足跡がよくわからない
乞食同然で、でも笑ってる

うん。
それでいい、それがいい。

私はようやく本当の脱力に
近づきつつあると
喜びに満ちています。

外からは、そんなふうには見えないとしても。



FullSizeRender
強みでつながるより弱みでつながっていく方が結果的に楽しくなっていくし、強くなっていくのではないかな、ということを実感中。

そう思ってたし、思ってるけど、最初から人まかせではなく、自分たちでやっていこうとするからこその、「出来ない!」が、人とつながるきっかけをくれて、ぼんやりとしていた直近の未来へのあゆみを少し照らしてくれている最中です。

だいたいいつもギリギリのタイミングでの出会いなんで、もう少し早く自覚せい!とは思う。だが、分からないと避けていた領域だけに、まず抱えている問題にとりかかる態度が出来るまでに時間がかかってしまったし、問題の詳細や輪郭を把握できるまでに、用語からして分からないので核心に向かって一枚ずつ薄皮を剥いていくように時間がかかってしまった。のだなあ〜!と振り返れば分かるんだな。

という言葉に出会い、ぐっと来た今朝。

とある気付きに、ほんの少しの割れ目が生じて
目の前にいる人が、ふっと、そこから
染み込んでくるような昨日の体験。

何かが変わりつつあり、変わらぬ何かが
現れる時事刻々。

この一週間は、
人との抜き差しならぬような
差し迫った、
でも、少し遠い、
そんな日々や体験が続きそうな予感です。




昨日今日と雨で、早野作業中止。
いろいろ書類をまとめるのにちょうどいいかも。


4日
あざみ野のスペースナナへ「日本と原発」を観にいく。
以前一時間以上遅刻して、今回も15分ほど遅刻して
しまった。「想定外の津波による電源喪失」は、想定
内の、勉強不足とコミュニケーションの不足による、
信頼の喪失ですよね、と改めて思う。

その後、カフェで一人ブレストみたいなことをしてたら、
数年前のアイディアがなかなか良かったのに、完遂させ
てなかったことに気がついた。ゆるすぎる。いろいろと。
事業化ってことに、もう少し結び付けないと。

それにしても6月27日に天田さんを媒介に、フォイヤー
シュタイン教育プログラムに出会えたことが、ものすごく
良い風を運んでくれている気がする。
イスラエルの教育、やばす!


3日
なぜかずっと棚上げしていた仕事の文章を、ようやく
しあげた。イラストの方は、毎日書いていなかったツ
ケで、まだピンとこないけど、なんとかなりそう!と
晴れ晴れとした気分。現代の空海みたいな、すごい人
の近くで仕事ができることに、感謝した。

踊る空海人形をまだ作ってなかったけど、しばらく作る
必要ないかも。


1日、2日
WAKUSEIチューニングが久しぶりにあう必然
人生=アートしつづけなくては☆
0003 calling......
0097 calling......






tis公募には無事落ちて、makefair2015に出展できることになった。
嬉しい反面かなりのプレッシャー。森のエレキラボ、ここは躊躇な
く「少女の夢」を表現するのがいいのかな、とぼんやり思う。

⭐︎

森ノオトってなんだろう?という悩み深き重い問いに対して、
そりゃもうズバリ「お母さん」でしょ。
というたとえを軽く持ち出してみたらば、少しはすっきりしてきた
かなあ。そこには様々な意味を込めたけど、その全部が伝わってい
なくても良いと思えた。

なんというか、同調できない部分はけして同調しないままに、真摯
に同士として連れ立って歩いていく技が私にようやく身についたか
もしれない。それにしても、きれいに正円を描きたい人に対して、
私はもう一個の中心点をつくり楕円にしてゆさぶる?!癖がある。
楕円思考とでも言うものが好きなのだ。
インド的?
ナンみたいにさ、ぶわーんとだらしなく広がっちゃった感じ。

しかし強気に中心に向かって行って違う価値観を描く、そんな技が
身についたのも、しつこくて、だらしなくて、愚鈍で、世界一うざ
ったい自分がいるからこそ。そういう自分がむしろ地に足をつけさ
せてくれるみたい。


月曜に祖母が亡くなり、昨日お葬式を終えて
帰ってきた。

諸事情により、全く面識のないお坊さんがくる
ことになったのだけれど、お通夜と告別式とも、
とても丁寧に執り行ってもらえて、心に残る
すごくすてきな旅立ちの儀式となった。

そして、位牌と写真、骨壺が、実家近くの、今は妹の住む
マンションの仏壇に収まったとき、ああ、ようやく家になった
という想いに包まれてほんとうに安堵した。
この感覚は家族の誰とも共有できない私一人のものだが、
平らかで穏やかな気分に今も覆われている。


今思えば、山伏修行もこの時の為に行ったようなものだし
着物講座に行く時、母方の祖母のゆかたを、この祖母のスカーフで
わざわざ巻いていったのも、なかなか理にかなったことと思える。
因縁というよりは、ただただ呼ばれたという感覚。
生と死の間に反応するセンサーがあるのだろう。
そんな考えが頭の片隅でゆらゆら漂う中で、少しずつ日常の些事を
かたづけた1日だった。

いやぁ、すっきりしました。

じつは、9月から習っていた指圧の勉強を辞めることにしたのです。

たかが指圧というなかれ。

あまり詳しいことは書けませんが、その教室というか、道場の性質からいって
続けるか否かは、私にとっては大きな選択だったのです。

何を信じるか?という、根本のところの問題とでもいいましょうか。
非常に迷いながら、通っていて
つい先日続けると決めたばかりだったのに、昨日、ふと思い立ちました。

背中を押してくれたのは、明恵上人の言葉と生き方です。

  あるべきやうわ

  阿留辺畿夜宇和

これですよこれ。私の信の根本は。
思えば、過去に師とした人と距離を置くようにもなったのも、
ここの違いだったのでした。

わたしは、わたしのいるべきところで、やるべきことをやる。

ゲイジュツカは 人のために、ただただ美しいものを作れば良いのです。
それ以上に、何を背負い込む必要があるのでしょう。
アレコレと欲張ってはいけないですね。想いは一緒なのだから。

欲張りで、負けず嫌い。
そのような面が、私にもあり
それが、また、かなりしぶとく居着いていたのだということが、可笑しくてたまらない。

道は見えているはずなのに、どうして、こうも迷ってしまうものかしらね〜。








家族っていうのは、面白い。本当によく出来てるな〜と思います。

先日の友人の結婚式でも、それぞれが自立しつつ、それぞれの影になり
全体で一つの、美しい形であるように思えました。

で、そんな想いから、この有名な詩を思い出したので、
引用してしまいます。
ジョン・ダンさんという人の「危機に瀕しての祈り」という詩です。

「ひとりでひとつの島全部である人はいない。
誰もが大陸のひとかけ。全体の一部をなす。
土くれひとつでも海に流されたなら、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。
岬が流されたり、自分や友人の土地が流されたと同じように。
わたしも人類の一部であれば、誰が死んでも、我が身がそがれたと同じ。
だから、弔いの鐘は、だれのために鳴っているのかとたずねに行かせることはない。
鐘はあなたのために鳴っているのだ。」

って、あ、結婚が危機だと言いたいわけではないですよ!
明るい気持ちで読むと、さらにいい詩だな〜と思うのです。

おととい、ある手紙を書き上げて、やっと出した。

たったこれだけのことに、まったくなんて時間と勇気がいったことだろう。

こんなに近くにいるのに何もしなかったら最低だと

思い続けて3ヶ月以上もの月日が流れてしまった。

ラブレターでは無いけれど、まあ、最大限のラブをこめたつもりではある。

何も変わらなかったとしても、

ばかだねえアンタ、と自分をちょっと笑ってやって、前に進もう。

****
昨日もまた、ほんのちょっとアクションを起こしてみた。

ほんのちょっと、楽しいことがはじまりそうだ。

私の考える、地続きの生活へ。

人を待っている間に、さらりと良い本に出会った。

「失恋美術館」

恋愛中でも行きたい素敵なところばかり。

****
今日は、近所を歩いていて、ばったり知人に遭遇する。

仕事で近くの保育園をたまに訪れているらしい。

こんなところで会うなんてね。たまげた。

そういえば、ちょうど、彼女とともにバイトしていた場所へ、今度行くのだ。

無数の点と見えない線を想った。

****
その後本屋へ行って、棟方志功さんの「ヨロコビノウタ」をふと立ち読み。

昨日の本も、たまたま最初に開いたのが志功さんのページ。

それが良かったので、そこから逆戻りして読んだのだ。

青森にも、そういえば今度行く予定があるわ。

でもそのせいで、手に取ったんじゃないことは分かっている。

手がぐっと熱くなって困った。

あれ、インテリア関係の本を探すんじゃなかったっけ?

帰り道に気付いたが、もうどうでも良いのだ。無くたってきっと大丈夫。

****
岡本太郎記念館?知っていますよ。青山の。行きましたし。

そうですか娘さんが。

帰宅寸前、道を変えたらふとした出会い。

今朝は縄文時代や太陽の事を想っていたのだ。

昨日の上の小さな芽。

コウドウセヨ!

近いは遠くて近いのだな。






人に対して、放った言葉は
こうありたい自分への
無意識からのメッセージだ。

今日は、まずいまずいと思いながら、
しばらく掃除を怠っていた場所をきれいにした。

あんまりきれい過ぎる部屋は嫌いだけれど
「やあ、おまえさん、ここをぬかっていたのだぞ。」
そんな声が聞こえて、妙に感心してしまった。

良い事に気付かせてもらったなあ。



動物園に行って、さまざまな「いきもの」を見る というのは

三木成夫さんの言い方を借りれば、遠い“おもかげ”に会いに行く

ってことだ。




ひとはみな

マザコンだ。

少し前から、そう思うようになった。

それを、とても肯定的に受け入れている。

ああ、早くばあさんになっておいて良かった!
いのちはぐるぐるまわっています。
ん?ぐるぐる廻っているから、いのちなのじゃ。オギャーー。

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