つねならむぅん

変わらぬものに憧れて、変わり続ける日常を綴っています。2020年5月、長らく放置していたブログを再開。つねならむーん→つねならむぅんと微妙にタイトルを変えました。

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このところ遠い過去の自分と出会い直している感覚がある。向き合うというより並んで歩く、同行二人、三人、四人と、時代時代の私が並んでいるような。

それでいて私の本来というのは、煙みたいなもののようだとも思う。浦島太郎に出てくる玉手箱の中から出てくるアレ。

ということはオヤ?

私は時間です。
私が時間です。

ってことかしら......?

真相はともかく、たくさんの私と共に、
生きている今日。

しばらく放置していた上妻世海の「制作へ」を
ぱらっと眺めたら、
考えが少しまとまるような、
とりつく島みたいなものが見つかった。

寝たら忘れてしまうだろうか?
忘れないといい。
流れていかないように。
と思ってブログに書き留めておく。

でも、わたしにはブログという形式や方法が向いてないのだなと、ようやく深く理解したりして。さようならと思った。

さようならと感じることが、昨年から
ぽつぽつ続いていたけれど、
ここもかぁ〜と晴れやかな気分。
何かが死んで終わったのかな。
さようなら、ありがとう、またあした。

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映画を観てから既に1週間以上経つのに、その感度が続いている「くじらびと」

祈りが身体化している人々、またその動きや暮らしが、今日現在も続いていることに、自分がこんなに慰められ、勇気を与えられるとは、どれだけ自分を歪め、傷ついていたのかと呆れ果てるほど、温かな何かを得ることが出来た。

インドネシア、ラマレア島。人口1500から2000人未満の村で、くじら漁が主産業の、過酷かつ弱き者に優しい暮らし。

30年通った方だからこそ、今の技術を活かして撮れた映像に感謝の気持ちが沸き起こった。

もちろん、あの村では生きていけないとか、やりきれない人がいることも十分想像できるし、あの生き方こそが正解とも思わないのだが、

くじらびと達のような天地とつながるような自然体の生き方、あり方を、今たまたま住んでる人口過密で都市郊外のおかしなまちで、どれくらい実践できるだろう?

そんな無茶振りを、自分に課したい、と改めて思ったのでした。







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湯河原のリトリートの宿、ご縁の杜に泊まり、火山灰質の砂に、素っ裸で埋まるという体験をした。

以前、山形での山伏体験で一緒になった伊藤由美子さんが、各地で砂浴デトックスワークショップをしている事を知り、疲れが溜まるタイミングで、しかも湯河原ならば近い!っと参加して、解放と開放を味わえて満足。身体が変わった気がする。

一緒に参加した人たちは皆、初めましてで、中には言葉を交わさずに終わった方たちもいたけれど、同窓会感覚あり。伊藤さんが「1人で頑張るのではなく、ここにいるみんなのエネルギーでデトックスするんです」と言っていたように、本当にその「共同作業」という感じが、ものすごく良く分かり、不思議な、しかし、自然な開かれがあった。

直接触れていないのに、身体は繋がっている感覚。

砂に埋まると、初日は、全身が心臓の鼓動になってしまったような、止まらぬパルス感に驚いてリラックスしきれない感じ。お風呂に入った後は眠くて眠かった。

次の日は、パルス感が少し穏やかになり、そのうち、眠ってないけど夢うつつな状態でα波出てるわ〜という気持ちよさ。

砂浴にも色々あるようだけど、初体験が伊藤さんので良かった。

砂浴前日も、畑で土にまみれ、今日も、土の上で畑づくりをして、静けさに包まれながらも、やる気に満ちている私がいました。

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ここ数ヶ月準備してきた花端会議が、今日終わった。まだ残務はあるけれど、この数年取り組んできたことが、ようやく一つ、具体的に実を結んだ感じがして素直に嬉しい。

特に対面でなくオンライン化が決まってからの数週間は、時間感覚が少し狂い、PC作業がどうしても増えていたから、区切りがついてほっとした。

まだ頭だけが少し興奮してしまっているけど、心身は穏やか。だいぶ失敗もしたのだが、それを笑って支えあえる、あたたかな人の繋がりが、たしかにあったからかなと思う。

またここから、気持ちも身体も切り替えて、来週また大きな山を、今度はまた別のチームで乗り越える事になってて、まだ、今夜は切り替わりそうにない。

まだ20時台だというのに、トーア氏は珍しく眠りについてしまい、私は、目の疲労を感じながらも、まだ眠気がこないので、あかりを消した暗い部屋の中でスマホを開き日記を書いている。外は雨。今夜も静かだ。

つらつらと頭と心身の周りを流れていく思考のようなものを、ぼんやりと聞いている時間は至福。そろそろスマホの電源も切ろう。








遅々としながらも、現実は続くもので、
もう夏が終わろうとしている。

しかし、ほんとうに他人のペースや言葉が気にならなくなる日ってくるのだね。

いや、気にならない訳ではない、気になったとしても、ふっと息を抜けば過ぎ去ってゆくのだ。風のように。

そして、ああと思い出す頃には、すこし愛おしかったりする。それは例えば「四面楚歌」って道徳的には追い詰められてる感すごいけど、なんだか美しいことばだったのかも、なんて思うコトと通じるような。

別に今、自分が四面楚歌状態ってことではないのだけれど。



同じ忙しさでも、自分が人生に主体的かどうかで、満足度、疲労度は変わってくる。

過去に書きっぱなしだった物語を、この夏思いたって書き加え始めた事で、静かに充足している。

のんびりと亀のように時間をかけて、近づきたかった世界に、筆、いや、キーボードを走らせることが出来る幸せ。

9月中に、とりあえずの完成目指したい。







この数週間で、はっきりと気づいたこと。


良妻賢母像からはとっくに降りて

良い子良い娘からも降りて

良い人からも完全に降りることが出来た。

良い人を降りるには、やはり
かつてない葛藤があったけれども

降りてしまったら、うん、大丈夫と思えた。

なにせ私のアイドルは
寒山拾得なのだから。

絵でしか知らない
アジアの知が残してくれた
うす気味悪いキャラ。

いい加減で、足跡がよくわからない
乞食同然で、でも笑ってる

うん。
それでいい、それがいい。

私はようやく本当の脱力に
近づきつつあると
喜びに満ちています。

外からは、そんなふうには見えないとしても。



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そうか、今日は夏至だったのだな。
一年で一番日が長い日。これからは徐々に夜が長くなっていく。


先々週くらいから、ぐっと疲れのような重いものが押し寄せてきていて、(それはここ3年くらいずっと続いていたようにも思うが)、とにかく必要最小限の動きをして、他はほぼ寝たきり、みたいな日が続いていた。

頭では明るい気持ちやら前向きな発想があっても、どうしようもなく怠惰になってしまうこの感じはなんなのか。

もはや慣れて当たり前になりつつある、何もできない時間を、しかし、今年に入って、ただただ認めている私がいる。それは何というか、とても優しい時間だ。色々出来ていなくても大丈夫、焦りや劣等感からちょっと外れて、浮いているような。



今日も自宅にいて必要最小限の対応をPCを通じてやり、途中、甲羅干しをするカメの気分で何もしないでぼんやりしていたのだが、夕方になって、ふいに身体が動き、ものを考える隙があり、人に連絡をとる事ができた。短時間だが、パキッと違う時間。

この言葉の本当の意味はよくわかっていないのだが、「ただサイのツノのように歩け(歩め?だっけ)」という感じが、映像的に迫ってきたのも面白かった。

すごくゆっくりとではあるが、
身体との対話の時間をとるようになって、この頃、体が成長期という感じで面白い。

今朝は急に一歩世界が深まったようだ。

今まで、立ち方がだいぶ狂っていた(歪んでいた)ことに気付き、
また、それを治そうとしている身体を
信頼すれば良いと気づいた、といったところ。

自分の身体を、自然に労わるには、
外からの情報を減らして出来ることに
集中すること。
それから、ぼんやりしたり、
ひたすら眠ったりする時間が必要。


そして手にした本に、生まれもった身体が8割で、意識は身体の営みから生じたカス、オプションに過ぎないというような話が出てきて、それがすっと入ってきた。
考えるな感じろというのとも違う、自然体の追求は続く。


私の住んでいるところは駅から遠く、都市部でも郊外と言われるまちで、今後10年で高齢化率がおそろしく進むであろうエリアの一つである。

とはいえ、今のところ、バス便は多く、自転車ライフだし、必要な時にはトーア氏の車もあり、それほど不便は感じない。それに、これからの時代は、列車より小回りの効くバスを見直す方が楽しいまちづくりに欠かせないだろうと思っているのだが、やはり電車が通る、駅が出来ることに、目を輝かせる人が多いのだなと、そこはかとなく虚しさを感じるこの頃だ。

長い間議論されてきた、あざみ野から新百合ヶ丘駅までの地下鉄延伸がいよいよ決まり、10年後には地下鉄の駅が近隣に出来ると決まってからの、沸き立つ人々を間近にリアルに見て、なんだかなあと思う。

ハードの整備によってまちが活性化したとしてせいぜい50年ではなかろうか。私が愛する自然環境の下に穴を掘る事での、その後100年単位での生態系への影響はいかばかりか、と、ため息をついてしまう。

正直、そのやり方はもう古いと感じている私は地下鉄ができる頃には、移住かな、と、本気で考えだしている。

45歳の誕生日の日の午後は図書館に行った。

日常の色々が少し落ちついたタイミングだったこともあり、脳と身体にようやく少し空間ができたのだ。新しい分野の本を手に取ることが出来て、やっぱり来てよかったと思う。私は最先端な人間ではないせいか、本屋より図書館のが、鮮度高い情報、未知との遭遇率が高いように感じる。

うすうす感じていたけどよく分からず放置しておいたジャンルの魅力に突如気がついて、これだったかと、新しい扉をそっと開く喜びは大きい。その向こうには、覚えなくてはならないことが、たくさん出てくるけど、一人でがんばらなくても良さそうだし、手遅れということはないことが、手に取るように分かるという不思議な感覚を味わった。



それにしても、本当は知りたかったのに、諸々の事情と頭の悪さが重なって気づけなかった盲の自分を発見するとあちゃーと思う。しかし、40を過ぎると、そんな小さな自分への恥ずかしさも3秒くらいで乗り越えられるので、ありがたい。

私の場合、与えられた状況で求められている表向きの情報を探しているときに、くっついてくる裏の裏の裏側くらいの情報に、知りたい触れたいの本質があるのかもしれない。

そうした多層な構造を、ちゃんとは理解していなかったから、ぼんやり流されたり巻かれたりしながら、ギリギリのところで、なんとか立ってやっていくしかないのだ凡、凡、凡♪

バイバイ昨日までの自分。これから凡〜ん、凡〜んと、飛んだり跳ねたりしながら進もう。

うん、なんだか頭の中で音がなり響いて、怪しい文章になってきた、愉快な45年目の凡、凡凡凡!

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強みでつながるより弱みでつながっていく方が結果的に楽しくなっていくし、強くなっていくのではないかな、ということを実感中。

そう思ってたし、思ってるけど、最初から人まかせではなく、自分たちでやっていこうとするからこその、「出来ない!」が、人とつながるきっかけをくれて、ぼんやりとしていた直近の未来へのあゆみを少し照らしてくれている最中です。

だいたいいつもギリギリのタイミングでの出会いなんで、もう少し早く自覚せい!とは思う。だが、分からないと避けていた領域だけに、まず抱えている問題にとりかかる態度が出来るまでに時間がかかってしまったし、問題の詳細や輪郭を把握できるまでに、用語からして分からないので核心に向かって一枚ずつ薄皮を剥いていくように時間がかかってしまった。のだなあ〜!と振り返れば分かるんだな。

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新年度に入って最初の週末。
ようやく自分の活動のためのインプットができた。

神奈川ネットワーク運動のあゆみについて、調べることに、
しばらくは時間を費やすことになる。久々に夜中まで調べたり、
書いたり。
女性たちの「しみんうんどう」のあゆみは、すごすぎて、
でも、なぜか無視されがちで、愛しくて。
アウトプットできる日が楽しみだ。

・・・

写真の野蒜は、木曜に、仕事場の庭や畑の敷地内で収穫したもの。
一部の土地では昨年に比べて数倍増殖していて驚いた。
特に世話もしていないのに、自然に生えてきてくれるって、ありがたいこと。

この季節、スギナやどくだみもニョキニョキ生えてきて、よし!と思う。
昨年に続き、野草でお茶づくりという仕事が待っている。


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