つねならむぅん

変わらぬものに憧れて、変わり続ける日常を綴っています。2020年5月、長らく放置していたブログを再開。つねならむーん→つねならむぅんと微妙にタイトルを変えました。

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そうか、今日は夏至だったのだな。
一年で一番日が長い日。これからは徐々に夜が長くなっていく。


先々週くらいから、ぐっと疲れのような重いものが押し寄せてきていて、(それはここ3年くらいずっと続いていたようにも思うが)、とにかく必要最小限の動きをして、他はほぼ寝たきり、みたいな日が続いていた。

頭では明るい気持ちやら前向きな発想があっても、どうしようもなく怠惰になってしまうこの感じはなんなのか。

もはや慣れて当たり前になりつつある、何もできない時間を、しかし、今年に入って、ただただ認めている私がいる。それは何というか、とても優しい時間だ。色々出来ていなくても大丈夫、焦りや劣等感からちょっと外れて、浮いているような。



今日も自宅にいて必要最小限の対応をPCを通じてやり、途中、甲羅干しをするカメの気分で何もしないでぼんやりしていたのだが、夕方になって、ふいに身体が動き、ものを考える隙があり、人に連絡をとる事ができた。短時間だが、パキッと違う時間。

この言葉の本当の意味はよくわかっていないのだが、「ただサイのツノのように歩け(歩め?だっけ)」という感じが、映像的に迫ってきたのも面白かった。

すごくゆっくりとではあるが、
身体との対話の時間をとるようになって、この頃、体が成長期という感じで面白い。

今朝は急に一歩世界が深まったようだ。

今まで、立ち方がだいぶ狂っていた(歪んでいた)ことに気付き、
また、それを治そうとしている身体を
信頼すれば良いと気づいた、といったところ。

自分の身体を、自然に労わるには、
外からの情報を減らして出来ることに
集中すること。
それから、ぼんやりしたり、
ひたすら眠ったりする時間が必要。


そして手にした本に、生まれもった身体が8割で、意識は身体の営みから生じたカス、オプションに過ぎないというような話が出てきて、それがすっと入ってきた。
考えるな感じろというのとも違う、自然体の追求は続く。


私の住んでいるところは駅から遠く、都市部でも郊外と言われるまちで、今後10年で高齢化率がおそろしく進むであろうエリアの一つである。

とはいえ、今のところ、バス便は多く、自転車ライフだし、必要な時にはトーア氏の車もあり、それほど不便は感じない。それに、これからの時代は、列車より小回りの効くバスを見直す方が楽しいまちづくりに欠かせないだろうと思っているのだが、やはり電車が通る、駅が出来ることに、目を輝かせる人が多いのだなと、そこはかとなく虚しさを感じるこの頃だ。

長い間議論されてきた、あざみ野から新百合ヶ丘駅までの地下鉄延伸がいよいよ決まり、10年後には地下鉄の駅が近隣に出来ると決まってからの、沸き立つ人々を間近にリアルに見て、なんだかなあと思う。

ハードの整備によってまちが活性化したとしてせいぜい50年ではなかろうか。私が愛する自然環境の下に穴を掘る事での、その後100年単位での生態系への影響はいかばかりか、と、ため息をついてしまう。

正直、そのやり方はもう古いと感じている私は地下鉄ができる頃には、移住かな、と、本気で考えだしている。

45歳の誕生日の日の午後は図書館に行った。

日常の色々が少し落ちついたタイミングだったこともあり、脳と身体にようやく少し空間ができたのだ。新しい分野の本を手に取ることが出来て、やっぱり来てよかったと思う。私は最先端な人間ではないせいか、本屋より図書館のが、鮮度高い情報、未知との遭遇率が高いように感じる。

うすうす感じていたけどよく分からず放置しておいたジャンルの魅力に突如気がついて、これだったかと、新しい扉をそっと開く喜びは大きい。その向こうには、覚えなくてはならないことが、たくさん出てくるけど、一人でがんばらなくても良さそうだし、手遅れということはないことが、手に取るように分かるという不思議な感覚を味わった。



それにしても、本当は知りたかったのに、諸々の事情と頭の悪さが重なって気づけなかった盲の自分を発見するとあちゃーと思う。しかし、40を過ぎると、そんな小さな自分への恥ずかしさも3秒くらいで乗り越えられるので、ありがたい。

私の場合、与えられた状況で求められている表向きの情報を探しているときに、くっついてくる裏の裏の裏側くらいの情報に、知りたい触れたいの本質があるのかもしれない。

そうした多層な構造を、ちゃんとは理解していなかったから、ぼんやり流されたり巻かれたりしながら、ギリギリのところで、なんとか立ってやっていくしかないのだ凡、凡、凡♪

バイバイ昨日までの自分。これから凡〜ん、凡〜んと、飛んだり跳ねたりしながら進もう。

うん、なんだか頭の中で音がなり響いて、怪しい文章になってきた、愉快な45年目の凡、凡凡凡!

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強みでつながるより弱みでつながっていく方が結果的に楽しくなっていくし、強くなっていくのではないかな、ということを実感中。

そう思ってたし、思ってるけど、最初から人まかせではなく、自分たちでやっていこうとするからこその、「出来ない!」が、人とつながるきっかけをくれて、ぼんやりとしていた直近の未来へのあゆみを少し照らしてくれている最中です。

だいたいいつもギリギリのタイミングでの出会いなんで、もう少し早く自覚せい!とは思う。だが、分からないと避けていた領域だけに、まず抱えている問題にとりかかる態度が出来るまでに時間がかかってしまったし、問題の詳細や輪郭を把握できるまでに、用語からして分からないので核心に向かって一枚ずつ薄皮を剥いていくように時間がかかってしまった。のだなあ〜!と振り返れば分かるんだな。

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新年度に入って最初の週末。
ようやく自分の活動のためのインプットができた。

神奈川ネットワーク運動のあゆみについて、調べることに、
しばらくは時間を費やすことになる。久々に夜中まで調べたり、
書いたり。
女性たちの「しみんうんどう」のあゆみは、すごすぎて、
でも、なぜか無視されがちで、愛しくて。
アウトプットできる日が楽しみだ。

・・・

写真の野蒜は、木曜に、仕事場の庭や畑の敷地内で収穫したもの。
一部の土地では昨年に比べて数倍増殖していて驚いた。
特に世話もしていないのに、自然に生えてきてくれるって、ありがたいこと。

この季節、スギナやどくだみもニョキニョキ生えてきて、よし!と思う。
昨年に続き、野草でお茶づくりという仕事が待っている。


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裸足ライフを提唱しながら身体カチコチだったこの頃、考えてても仕方ないと、近所の公園に行ったら、必要なものは全て身近にあったじゃんと、あきれるほどに平和@川崎市麻生区王禅寺公園 


今日は裸足にはならなかったけど、土日ってやっぱり子連れファミリーが大挙して訪れるのだな。

トーア氏と散歩しながら、全ての人がかわいく見える心境って、やはり精神も肉体ももう老人なのかなと、なんだかさっぱり思えた日でした。

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「人にやさしいまち」って、どんなだろうか?と、ずっと考えています。

身体能力を限りなく花開かせるような暮らしと、ケアが行き届く社会は、異なるようで、ものすごく近い気がしているのだけれど、どちらもちょっと間違うと、近さがなくなってしまう感じがなんとももどかしい。

自分の中にも、その二つが融合することに、まだ何か矛盾や、相反するものが残っているようで、これを何と言ったらいいのか。

と、書き始めたら眠くなってきたので、明日改めて整理したいところ。

もう少しぼんやりする時間と、出会いが必要そう。

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不食をはじめてから、およそ2ヶ月。
やはりちょっと痩せたかも?と感じるが、
体重を測るという行為を長らくしていないので
良くは分からない。健康状態は悪くはなさそうで、エネルギーも不足してはいないみたいだし、自分の身体が少し自分に近づいたような感覚がある。

今のところ、適度に糖分も、添加物も、アルコールも、肉も、食べている。ただ、トータルの飲食物の消費量でいったら今までの5分の1くらいかと思われる。トーアさんは、変わらず色々買ってくるので、家計的にはそこまでの変化はないが、仕事に行く時は外でランチしていた分をがほぼなくなったので、個人としては、食費を使わなくなった。


月一回、森ノオトで実施している、「ウェブいいかも市」の日の夜には、写真のように豪華な夕飯も楽しんだ。縁のある近隣の個人商店を応援する地産地消のすすめの取組で、1店舗1000円のセットを好きに組み合わせて購入するのだが、人にあげる分などと合わせて、ここではお金を使うというメリハリをつけている。



2月に入り、変化したのは間食として、コーヒーに合わせてお菓子をよく食べるようになったこと。

えっ?身体に悪いじゃん?!不食じゃないじゃん!と思うかもしれないが、食べても食べなくてもよい自由が不食の醍醐味。

「なるほど、おやつの楽しみってこういうことか〜」と、初めて気づいている感じで楽しいのだ。変な依存でも、強い欲求でもなく、お菓子という存在への敬意を払っていただく感じ、というと大袈裟だろうか。

トーア氏も、アルコールをやめたら甘いものが食べたくなるのだそうで、箱入りクッキーやら、おせんべいやらが常備されるようになった梅原家である。

と、書いていて、自分で手づくりするという選択肢をすっかり忘れていた事に気がついたが、その気が起こらないうちは、ブルボンやら森永、トーハトなど大手のメーカー品にもお世話になろう。


この行動や気持ちの変化には、1、2月にハマっていた森博嗣さんの小説、ヴォイドシェイパシリーズも影響しているなと思う。考えすぎる侍、ゼンの、剣の修行の旅に同行することで、こちらの思考までシンプルにクリアーになっていく体験をして、自分の中の男性性と女性性がまあるくまとまったと思った。

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室内の暖かさで、育苗ポットで花が開花してしまった。ほんとうは広い鉢に植え替えしなければならないのだが、ベランダや事務所の庭の手入れへのエネルギーが残っておらず、そのままにしておいたのだ。


だけど、こんなに小さな土壌と少しの水で、植物たちは太陽をもとめて健やかに成長し、こんなに美しい花を咲かせるのだなと、自然の造化の神秘を感ぜずにはいられない。

花を咲かせるには相当のエネルギーを使っているはずなので、ここで老化が進まないよう摘んでみる。親指より小さな花だがなんとも精巧精妙で見飽きない。

トーアさんは「まるで小学生がつくったみたいだね」と笑って言う。私は、ジョージアオキーフをちらっと思い浮かべる。

そして、そういえば、ジョージアオキーフの画集を持っていなかったなと考える。しかし、その前に、まだ手をつけていなかった襖に、和紙を貼る作業が先だなと思い出した。うん、2月は、その作業をやろう。ベランダ整理は3月だ。のんびりやったほうが、うまくいくだろう。

1月は、職場のゴミをどうにか片付け終わるところまでで、かなりのエネルギーを費やしたなと感じる。同時に頭や意識にも余白が出来て、団体内の話し合いの本丸に近づいてきた感はあり、さらなる脱力が必要だなと思っている。何をつなぎ、何を離れるか、自粛期間のおかげで、じっくり考えられるのが嬉しい。



少食も続いている。
トーア氏に合わせて、夕飯はビールを飲み、肉も食べるが、量が少しで満足するようになって、すごく気持ちが楽ちんである。

満腹感を前より感じるようになったというのが正しいかもしれない。朝も空腹ではなく、食欲が満たされた状態で起きるので、野菜ジュースやお茶、コーヒー、生姜湯など、その日の気分で飲むことを楽しんでいる。

日によっては、夕飯前に、小腹が空く時があり、そういう時は、我慢せず、せんべいやクッキーなどを食べることもある。

テレビやネットを通じた、目からの刺激で食べたいという欲が湧くことがないのも不思議だ。画面を通じて何かを美味しそうに食べている人を眺めて楽しむことはできるが、羨ましいとか、つられて食べたくなることがない。

食べない=寒いということもない。
外裸足はしていないが、うちにいる時は基本裸足で過ごしている。休みの日は窓際で猫のように日向ぼっこする楽しみも覚えた。

食べても食べなくても良い。

身体に正直に生きる風習と、そこから現れてくる態度、しぐさ、所作、まなざし、思想、ことばの更新と熟成を、楽しみに待ちたいと思う。


年末年始はいつも静かな梅原家だが、今年はトーア氏の実家沼津へ帰ることもなく、私が長めの冬休みをもらったため、さらに静かで穏やかな日々を過ごすことが出来た。そのおかげもあってか、内面的な意識の変容がどんどん起こり言葉が追いつかない程だった。


3.11以降に私の内面で起こった津波がようやく凪いできて、それを静かに見渡すもう一人の私がいて、これからやっと本当の復興に向けて動きだせるかなという境地に立っている感じだ。

もちろん、ほんとうの復興といっても現地に行って何かするわけではなく、損なわれた部分を改めて把握して、さまざまに散らばったあれこれを整理し、自分自身や今いる組織、関わる人たちの無意識のとらわれ、常識などをいちいち書き換えるというような非常に地味な仕事をコツコツやるのである。

今いる環境で、頭に?が浮かびながらも、言葉にならず流されるままになっていた部分を書き換えていく作業はそれなりに労力も胆力も必要なのだが力まずにやっていきたい。

1番大事な仕事は、人々の中に眠っている野生の喜び、自身を含む自然との触れ合いの素晴らしさを、日常に取り戻すことだろう。とにかくそれを軸にしていれば次に進む道が自然と分かる気がしている。

休み中、ヤマクミがパークの日に公園へ行こうと誘ってくれたこと、WAKUSEIゆーきとペグルのじゅんこさんがヘナをしてくれたこと、久しぶりに図書館に行けた事、保木公園で堆肥づくりがはじまったことなども、私の中では復興という文脈で繋がってくるものだ。



自身にとって1番の変化は、しかし、「不食」の領域に一気に進んでしまった事である。

以前、「食べない 死なない 争わない」を読んでから、いつかそっちにいきたいなというなんとなくの願望はあったけれど、特に無理して目指すものでもないと普通に過ごしていたが、最近すぐお腹いっぱいになるな、とは思っていた。

年末年始暴飲暴食する機会もなかったので、あれ?と思って食べない日を作ったら調子がよい。食べるとむしろ疲れる事に気づいたので、やめてみたら、食事に関して、すごく自由になったのでわたしも驚いた。

栄養へのとらわれ、食べないと人は生きていけないという刷り込みからの解放である。それから美味しいお店なり美食の情報を持っている人の方が素敵で人気者になれるというような無意識の順位づけとかもすっかりなくなってしまった。


今は、夕飯だけは、トーア氏と共に食べるので、一日一食、朝昼はお茶やコーヒー紅茶、みかんやりんご、余っていたシュトーレンの残りをちびちび食べたりはしているので、不食というよりは少食だけれど、一食の分量は少なくアルコールも量が減ったので、しばらくはこれでいく予定。先日、仕事後にお弁当を買って食べ、夜も調子に乗って食べたら、次の日半日寝込んだので、もうやらない。



ダイエットしているわけではないので辛くないのが良い。体力が落ちたり、変に痩せてきたりしたらマズイのですぐやめると決めているが、目に見える表面的な身体がどう見えるかはもはや問題ではないので、本当に気が楽になった。

そして、急にスピリチュアルに目覚めたといって何か活動するつもりもなく、ごく普通の暮らしを愉しむのだ。また何か気づいたり変化があったら、またここに記録していく。

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渋谷セルリアンタワーの能楽堂で、能楽師安田登さん率いるノボルーザによる、イナンナの冥界下りとイザナミの冥界下りを観た。
その間に、デーメーテール賛歌を挟み、最後は座談会と言う4時間超の仕立て。

シュメール語と、古代ギリシア語、日本語による謡、電子楽器に古典楽器、シンギングボウル、ラップ、視覚障害者のための解説のような語り、手話、踊り、手拍子......と、とにかく、多言語多重なチャンネルが交錯する儀式を目撃体感できて楽しかった。途中から、意味内容を理解しようとすることをやめて、自分の中で、無意識に閉じている感覚をどんどん開かせていくような感じでいたら、ほんとうに体も心も軽くなって帰宅した。

難を言えば、狭い客席にじっと座って観ているのがちとストレス。ライブのように立ち見で、一緒に踊ったりしながら観たかった。そもそも、神事などの儀式は観客に見せるためのものではなく、そこに居合わせた人が否応なく参加させられてしまうものなのではないかしらん。でなければ、もっとゆっくり緩慢に動いてもらえると、こちらも、息を飲んでじっとみてしまうか眠っていられる気がする。

それから、舞台上に置かれた灯が本物の火だったら、さらに良かったかも。照明にだけはノイズが少なく、明るすぎるのが、ちょっと気になった。

それにしても、ビルの中に納めた能舞台と言うのは、そもそもすごく変!って前から思っているのだけれど、それが逆によかったのかな。あの視覚的な異様さと、建築物としての強度があるからか、なんでもありなものが見世物として成立し、エンターテイメント性が担保されるのかもしれない。橋がかりがあるのも普通のステージにはないもの。プラネタリウムのドーム映像と同じく、21世紀的な表現の場として、次は観客席の窮屈さをどうにかする工夫ができないものか。

例えば階段状になってて、前の人の頭を気にせず座布団に座ってみられて、さらに椅子の下が空洞になっているから余計な荷物を入れられるとか。舞台内容がなんであれ、そこに座ることが心地よいから行くっていうのもありだと思うのだが。

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それは置いておいて、座談会で話題になっていた、テクノロジーで舞台上と同じく、絶妙な間合いをとって調和できるのか?と言う問いが刺激的だった。安田さんと同じく、私もそれが実現するといいなと思う。どうやるのかは全然わかっていないけれど、それができたら、戦争が終わるような気がするので。そのためには、幼児のように、和して同ぜず、の精神を身に付ける人が増えたら可能なのではないかと、根拠なく信じてみたい。

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ところで、イナンナの冥界下りは、メソポタミア地方で興ったシュメール人の文化の中で生まれたものらしい。シュメール語、シュメール人については、この夏ハマったMundi先生のyourubeの世界史の授業で習ったつもりになっていたが、全然覚えていない!!

改めて調べてみると、シュメール人はメソポタミヤ文明の基礎をつくった人々で、都市国家を初めて作り、楔形文字を生み出し、青銅器をつくり、ジッグラトと言う聖塔をたて、神権政治を行ったとある。

世界最古の文学
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ギルガメシュ叙事詩【電子書籍】[ 矢島文夫 ]ギルガメシュ叙事詩は、旧約聖書の内容に影響を与えており、西洋人にとっては衝撃的に受け入れられたという。

昨日の舞台を観て、イナンナは処女なのかなと思っていたら、ちゃんと夫と子供もいるそうだ。生まれつき、槌矛なる棍棒のような武器を持っている戦いの神で天の女主人とかなり勇ましい。なぜ、冥界に行こうとしたのか不明だが、冥界を納める姉エレシュキガルに会うための道のりで、全ての身につけた力を剥がされて、ただの裸の人となって一度死に、その後、命の草と水で生き返る。

舞台ではイナンナが生き返るところまでで終わりだった気がするが、実際には続きがあり、元の世界に戻ったのち、夫とその姉が半年ごとに冥界に下るようになったとあるので、やっぱり結構コワイ女性なのだった。ウィキペディア情報なので正確なのかどうかはまだわからないが、民族同士だけでなく、血族間でも?戦いに明け暮れる日々の中で、そのまま武力と権力を捨てて平和の女神として楽しく暮らしました!と言うハッピーエンドなストーリーはありえない様子。

安田さんが冒頭で紹介していた、ネイティブインディアンの文化として残るサンダンスの儀式も、そもそもは戦士たちが血肉を捧げ踊る、身体的苦痛や痛みと共にある。とても恐ろしくて真似はできないが、それは、生きる土台となる大地、大自然との調和を保つための儀式で、それぐらい当然でしょう?という態度には痺れる。得るものがあれば還す。イナンナを信仰した古代の人々にも、そんな気分があったのかもしれないと思うと冥界下りの理由が記されていないことにも、ちょっと納得がいく、かな。


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